第1回 ヤンとカワカマス

ヤンとカワカマスは、ひとことで言えば、遠近法が主役の作品だ。しかし遠近法といっても、その遠近の距離、つまりズームの比率というものは、想像力の世界ではそれこそ無限の性能を備えている。カメラのレンズなどは足下にも及ばない。

まず大きな構造として、ヤンの住む小屋のある丘の上(といっても、200m位の標高はある)と、カワカマスが暮らす大河が、広大な遠近で拡がっている。読者は当然ヤンの視点に立つと思われるから、あの景色、空間を全て見渡すことができる。

そして読者は、この広がりをヤンといっしょに最低2回、往復しなければならない。
カワカマスに感情移入した人は、もっと歩かなければならないが… 仕方ない、ごくろうさま。
この往復は大変効果的だ。この物語の基本的な構造=遠近を、自分の足で (自分の想像力で) 実際に確認するわけだから。

さらに、ヤンとカワカマスふたりの往復の繰り返しが、リズムを産む。単調なメトロノームではあるが、素朴でミニマルな音楽として、気持ちを落ち着かせることだろう。




さて、もっとも効果的な、そして誰もが使う遠近法。
それはカワカマスが初めてヤンの小屋に現れた時だ。

ヤンはこう語る。

「ボクは突然の来訪者がカワカマスであることに驚いた
が、彼のことよりも、彼の背後に広がる草原が朝の光に
金色に輝く様や、そのまたとおくの森の木の葉がキラキ
ラ光る様に見とれていた。もう本当に目一杯秋なんだ」

このときボクらは、ヤンにつられて、
カワカマスの背後に広がる秋の草原に目をうばわれる。
大切なものは、いつも自然なんだ。

もちろんカワカマスもヤンも自然の一員。
でもここは彼らを後回しにしても、光り輝く秋の舞台を
見つめなければならない。

こうして、目の前のカワカマスを通り越して、
読者は遠くを観る。遠と近のダイナミズムというわけだ。





さて、翌日も同じ仕掛けがある。
これはもっとささいな仕掛け。

「翌日、きのうのことはさっぱり忘れて、ぐっすり
眠っていると、トン、トン、という音がした。
……中略……
修理したばかりの蝶番に見とれながら、扉を開けると、
また、カワカマス君が立っていた」

ヤンは蝶番を修理したり、真鍮のドアノブを磨いたり
するのが好きなのだが、自分の手で何かしたもの、
それは自らに最も近いモノ。つまり実感のともなった
クローズup。あるいは無意識のクローズup なのだ。

来訪者よりも蝶番。これがポイントだ。
リアリズムというものは、そういうものだ。


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