【町田純のメモも覚え書きも残されていない、
未来を生きる子供たちのための物語あるいは絵本】
ユーゴスラビア崩壊の過程で1991年から2000年まで激しい内戦が続いたボスニア。その破壊された町や荒れはてた村を二匹のロマの小ネコが彷徨い歩く。一匹はアコーディオンを弾きながら、もう一匹はそれに合わせて歌を歌いながら。
人の住んでいる家があれば、少しのジャガイモを請い、お礼に歌を歌う。
「♪ジェレム、ジェレム〜♪」
住人はどこかに逃げたのか、誰かに連れ去られたか、どこかで殺されたのか?人の居ない家にジャガイモが残っていれば、有り難く少しいただく。住人の遺体が放置されたままの家もある。
(最後のシーンだけ、町田純の2つのメモが残っていました。
私が町田純から聞いたと記憶しているものとは少し違っていました。)
<最後に近いシーン>
一匹のネコの墓標の前に立つ小ネコと僕。
小ネコは突然、アコーディオンで「ジェレム、ジェレム」と弾き、歌う。
僕は「ヘーイ、ジェレム! ジェレム、ジェレム」と、声を限りに叫んだ。
<最後のシーン>
(発車する列車から)
僕は目で合図を送った。しかし……
小ネコは失明していたのだ。
ああ、しかし、決然と歩いていくじゃないか。
僕は列車の窓を思いっきり大きく開けて顔を出した。
生きとし生けるもの、全てが
初夏のまぶしい光を浴びて、
ニセアカシアの香りに包まれていた。
年が巡っていた。
生きろ! 君たち全て!
life=生命=人生には希望がある。
どんな小さなテントウムシにも
小鳥にも
草にも、樹一本にも。
(そして20年後)
私の乗る列車に一匹のネコがアコーディオンを抱えて姿を現す。
「ドナウの漣」を弾き歌う。
横からチップの小銭を渡す客に、目線は前を見据えたまま。
私に気付かず通り過ぎる。目が見えないのか。あの時の小ネコだろうか?
私を忘れたか。
20年の歳月は余りに長すぎる。私もすっかり変わった。
私は低い声でつぶやいた。「ヘイ、ジェレム。ジェレム」