ネコの「ヤン」とちょっとトボけた仲間たち(上)
―これからめぐり会う読者へ―
動物達は時の一瞬一瞬だけを生きていて、過去や未来といった地平を持たないのだろうか。
でも、そもそも過去や未来とは人間達だけの幻想なんじゃないのか。僕はネコのヤンが話す物語を筆記しながら、時々そう思うことがある。一瞬に込められた永遠を絶え間なく生きること、そしてその連続が彼ら動物達の生を形作っているのだけれど、文学はちっぽけな本の中にその一瞬の(あるいはもう少し長めの)、永遠を閉じ込めなければならない。ポーランドの詩人ミーウォシュの「窓」という詩。
ぼくは夜明けに窓の外を眺め若いりんごの木を見た
透明なかがやきの
ふたたび夜明けに眺めたとき大きなりんごの木が立っていた
たわわな実をつけて
だから歳月は過ぎにすぎたはずだが何ひとつぼくはおぼえていない
夢の中で起こったことを
(工藤正広訳)
このりんごの若木とたわわな実をつけた成木の間に途方もない時が、人生が、込められているのだう。しかし、それはもしかすると、たった一行の行明けにすぎなかったのかもしれない。僕はいつも思っている、この二本の同じ木の間、その行明けを埋めるのが物語=小説の役割だと。
さて、「小ネコちゃんて言ってみナ」は僕の一番新しい作品、短篇集だ。ネコのヤンを主人公とする七冊目の本。三年ちょっとの間によく書けたナ、と思うと同時に、未知谷(みちたに)という奇特な出版社が作り続けてくれたおかげでもある。(実際この国の文化をやっとのことで支えているのは中小出版社なのだ ! )
ヤンは限りなく優しいけれど、確固とした意志、強い自我を持ったネコだ。そしてそれはヤンの物語に登場する仲間違、他の動物にもあてはまる。助演男優賞クラスの川魚のカワカマス(「ヤンとカワカマス」、「カワカマスのヴァイオリン」、「草原の祝祭」に登場)、故郷パレスチナを失った烏のシメ君(「ヤンとシメの物語」)、占いを商売としながらアルメニア独立運動の組織に属しているらしいウサギ(「イスタンブールの占いウサギ」)。名脇役のいつも眠そうな目をしたドブネズミ、下手な変装のミヤマガラス。こういった連中も皆それぞれの領域を持ち、対等に、決してべたべたもたれ合うことなく、お互いの存在をひそかに尊重して生きている。
「小ネコちゃん…」にはさらに新しい仲間が加わった。白くて小さいイジメネコ、売れない短篇作家のやや黒猫、モップのような毛のムク犬…。みんな素晴らしい役者達だ。役者 ?
そう、僕は連中の協力の下、いつも映画を撮っているんだ。最初にあるシーンが浮かぷ、それを文に直す、そしてまた次のシーン。 映画は脚本から映像を撮る。僕はちょうどその逆をやっていることになる。現代の作家は皆映像を意識していると思う。たとえばロシアのソローキンは絶対そうだと思う。そして挿絵を描きながらいつも思う、ああこれが映像だったらどんなに深く面白く表現できることかと。小説ではセリフとセリフの間は空白の行間にすぎない。そしてへたなヤツは下らない心理描写をつけ加える。映画だったらその空白に唐突な映像を挿入して、異化効果を発揮することもできるのに。そんな夢想をしながら、アレ、でもカワカマスを誰が演じられるっていうんだ ? そもそも主人公のヤンは ? ということに気がつく。こうして仕方なく僕はまたノートに字を連ねる。
それでは今度の短篇集から僕が大好きなヤンのセリフを。
……ヤンとドブネズミがなぜ自分達の耳が立っているのかを議論した後。舞台は夏の夕暮れの公園のあずまや。遠くにはこんもりとした森が見える。小さなサモワールが湯気をたて始めた。遠くからかすかな汽笛の音。そして吹奏楽団のワルツが聞こえてくる。ワルツはいつまでも続く……
「ネコさん」
「なあに」
「思うんだけど、ボク達の耳はやっばり何かを聞くために立っているのかな」
「そう、そうだね。それも、ずっとずっと遠くの、はるか向こうの何かを聞くためにね。囁くように呼びかける小さな声も、虫の羽音も、そして夏の夕暮れのワルツも、何もかもだヨ」
さあ、では皆さん、二匹の名優に拍手を !
(まちだ・じゅん=作家)
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