ネコの「ヤン」とちょっとトボけた仲間たち(下)

―ネコ文学の地平線―

 ヤンの本はどのジャンルに属するのだろう。挿絵が多いので絵本と思うかもしれない。たとえば「ヤンとカワカマス」や「善良なネコ」。それともファンタジー?(僕はこの軟弱な言葉が好きになれない)。いっそのこと外国文学の方がありがたい。この国の文学が余りに無残だから。殺人、暴力、性、どーでもいいような恋愛、つまらない内輪話、日常のちまちました話、そんなことにしか題材を見つけることができないのか。問題は想像力の欠如。しやれたユーモアの欠如。でもこのウットウしく閉塞(へいそく)した国で物語を書くことは難しい。それならいっそのこと人間外の世界を描いたらどうだろう? たとえば全く新しい動物の文学、ネコの文学、ウサギの文学…

ここでふと懐かしい言葉を思い出す。初期サルトルの「実存は本質に先行する」。陳腐なギリシア哲学以来の二元論にすぎないのだけれど、議論はいい、さあ行動しようという宣言だった。60年代、危機にひんした実存は体制や権威に異議申し立ての行動を起こし、その波は世界をおおった。しかしアメリカを中心とした体制に打ち砕かれ、70、80、90年代と、粉々になった個々人の美しい実存のカケラは、次々と掃除機のような巨大資本に吸い込まれていったのだ。そして今、やはりアメリカで生まれた情報革命と称する偽りのグローバル化の中で、僕らのわずかに残された本質すらも、情報資本によってかすめ取られようとしている。失われた十年という言葉を耳にする。しかしそれは、単にこの国の資本にとっての話だ。僕らの精神史の中で失われたのは、この三十年なのである。

ヤンは「ヤンとシメの物語」(これは僕にとって心の本)の中で、ロシアの聖者めいたちょっと風狂のクロライチョウから、「全てはくり返すようで決してくり返すことはない」という言葉を聞く。そして「イスタンブールの占いウサギ」で、ヤンは革命の動乱を逃れてロシアからトルコのイスタンブールヘと旅立つ。落日のオスマントルコの都で、占いウサギが作り出す永遠回帰の渦に巻き込まれそうになりながら、ヤンはニーチェに反論する。「全てはくり返すようで、決してくり返すことはないのです」と。

 ヤンは生の一回性の中で自らの実存を純粋に生き抜くネコなのだ。だからこそ彼ら動物達は、この地上のあらゆる存在が自分達と同じように侵すことのできないそれぞれの世界を持ち、必死に生き抜こうとしていることを知っている。ヤン達の世界を読むことは、失った実存のカケラを取り戻す手助けになると僕は信じる。そして取り戻した実存を、かすかに残っている僕達の本質=内なる自然と融合させ、新たな反攻の準備とすることを願う。
 文学は哲学にも思想にも、もちろん人生の指針にもなりえない中途半端なモノだ。文学とはつまるところ、夢の中で起こった幻想であり、同時にほのかな希望なのだ。

 去年のちょうど今頃母を亡くした。今、僕は母からもらった民芸調のワイングラスを握っている。その時は言えなかったが、まあ僕の趣味じゃない品。落としてもなかなか割れない。仕方なく悲しみを注ぐ。なぜつまらないモノは残り、ヒトは消えるんだろう。どちらが大切かわかりきったことなのに。摂理は真理に反している。僕はこの歳になって生と死の違い、その意味がすっかりわからなくなってしまった。なぜモノは残り、命は絶えるのか。

 そんなこともあって、というわけでもないのだけれど、次の作品では動物も通り越して、モノ自体を描いてみようと思っている。何かわかるかもしれない。たとえばモノにも生きた世界がある、といったことが。題して「ボクたちネコのお人形のコンビ」。二匹のネコのお人形が活躍する、ちょっとアヴァンギャルドな絵本みたいなものを。人間どもの世界、それは既成の作家さん達に任せよう。

 パソコン全盛の時代にあって、本は紙とインクでできたあまりに原始的なモノ。しかし本はまさにモノでありながら、不思議なことにたった一人の読み手によって生命(いのち)となる。        

(まちだ・じゅん=作家)

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