暗闇にウード(弦楽器)の演奏が聞こえる。舞台が明るくなる。
巨大な壁が現れる。壁の下に7人の俳優が座っている。黙って、物憂げに。
ウードを弾く者1人。ダフ(大きな丸盆のような打楽器)を叩く者1人。
1人が歌う。
立ち上がって、遊べ。若者よ。
死はいつか必ず訪れる。
人生は海のごとく、
生に飽くことはない。
…………
…………
立ち上がって、遊べ。若者よ。
死はいつか必ず訪れる。
人生は故郷のごとく、
生に飽くことはない…
そして、俳優達は立ち上がり、PLAY を始める。
「父さんは庭にバラを植えた」「僕はチョコレートが大好きなんだ」
こんな行為、こんな発話そのものが、遊び なのだ。
壁に囲まれたゲットーのなかでの、抵抗の遊び。遊びによる抵抗。
へこたれてなんかいないぞ!
それから、いくつかのエピソードが 演じられる。
繁盛していたファッション・ブティックをイスラエルのブルドーザーに壊され、次の店は壁で妨害され、次の店は……今は、露天で針や糸を売っている女性。
アラブ馬をロンドンの競馬に出場させる。その後、馬は戻れるけれど、付き添いの僕は帰国出来ない。パレスチナの出入り口を押さえているイスラエルが、パレスチナ人には帰路を閉ざすのだ。
いいさ、壁の中に戻れなくても。自由な世界に出発!………できなかった。殴られて閉じこめられて、馬を奪われた。
弟たちの学費を稼ぐために、自分の進学を諦めて働く女性。(ここにも女性差別!)
でも、教師になる夢は捨てない。学校から帰った弟に勉強を習う。
ビー玉遊びの好きな少年。ある日、家の前にビー玉が沢山ころがっている。
どうして? 喜んで拾いながら、家にはいると、父親が床に倒れている。
胸には沢山のビー玉………いや、フィレシェット弾だ! 爆薬に詰め込まれている多数の釘のようなものが飛散して殺傷力を増大させる。イスラエルの新型対人殺人兵器。
ビー玉なんて大嫌いだ!
殺された男を、どうやって埋葬したらよいのか?
死亡証明書に、無犯罪証明書に、埋葬許可証。爆撃でメチャメチャにされた体を、また検屍のメスでズタズタにされなければならない。
壁で隔てられてしまった墓地に行くには、検問所の通過許可証。葬送の者達の通行許可証もいる。
「何で勝手に死んだのだ! 生きている者の苦労も考えろ!」
これらのエピソードの間を、音楽を伴ったエピソードが埋める。
ウードとダフ、タンバリン、太鼓に、歌とダンス。
楽しげな子供の遊びの歌。伝説の英雄の歌、結婚を祝う歌。死者を悼む歌。
パレスチナの人々の間に生きている音楽は、本当に生き生きと、力強く、楽しく、美しい。
しかし、にもかかわらず、胸を締め付けるやりきれない気持ちは何なのだろう。
昨年の公演「アライブ・フロム・パレスチナー占領下の物語 では、あんなに勇気づけられたのに。それは、「死者何人」と数字に還元されてしまった犠牲者達の個々の生を掘り起こし、蘇らせたものだった。
今回は、今、壁の中で生きている人々の話。
だとしたら、もはや安らかに憩うだけの死者と、いまだに苦悩し続ける生者の違いに因るのだろうか?
いや、死者は、埋葬の苦労を愚痴る生者の台詞の後に独白した。「存在すべきなのか、存在せざるべきなのか………」 死者もまた苦悩する?
だとしたら、やはり、壁の抑圧を感じるからだろう。途方もない圧迫感、途轍もない閉塞感が、いつの間にか静かに深く伝わってくる。
… 立ち上がって、遊べ。若者よ。
死は、いつか必ず訪れる …
この歌を聞いただけで、心がふるえた。
この言葉が、すべてを語っている。
遊ぶことは、イスラエルの占領に抵抗すること。
遊ぶこと=演じること=生きること。
遊べ、パレスチナの人々よ。そして、存在し続ける。死者さえも。
立ち上がって、遊べ、わたしたちも。不正義に対して。
Text by Mariko Machida 2005.3
|