ヤンとシメの物語
「前にいたところはすごかったんです。そこら中にたたくところがあって。
……グルジア教会の円錐形の屋根」
ボクは教会の鐘をたたくのは得意だったんですけどね。……それに金色の丸屋根も好きです。ただあそこは、とまるところがないんですよ。だからやりにくくって。
ボクは初めてシメ君が小さな肩掛け鞄を提げていることに気がついた。
すぐそばに咲く忘れな草の明るい青色が今日の空の色を映していた。空地帯の中央から向こうの森にかけては、名も知れぬ白い花が散在していた。(レヴィタン《森の小花と忘れな草》)
森と森の間の空地帯には名も知れぬ白い花と、いつもの年より薄いブルーのワスレナグサが群生していた。(レヴィタン《森のそばの草地》)
「……これは、ヒイオジイサンが長旅の末どこからかひょっこり帰ってきたときに着ていたコートだそうです。……」
古いサモワールはのんびりとお湯を沸かして待っていた。……昔、カワカマス君からもらった、銀色の双頭の鷲の紋章と二本の横線以外はとくに模様も描かれていない、白色のカップに紅茶を注いであげた。……そして、白地に淡い緑色で小さな花束の描かれた薄い磁器のカップにも注いだ。
そして気分を変えるために、昨晩焼いたキャベツのピローグを持ってきた。
よく見ると、それは小さな小さなイコンの破片だった。聖母マリアの顔らしきものとその光背の一部がのこっていて、周囲には焼け焦げたような跡もあった。……
「……金色の光背が光りますよ」
ピローグを油紙で包んであげると、シメ君は跳ねるような二足跳びで、森の方に向かって帰っていった。
それは小さな五角形の星の形をした引き出しのノブのようだった。……ガラスの取っ手は、光が当たると突然そこに星が出現したように輝くのだった。
「……これはとてもきれいに光る石なんです。カズベク山の中腹で拾ったんです」
……
それは水晶を含んだ暗緑色の鉱物だった。
屋根からどうにか梯子を二、三段下ったとき、板壁に細かい楔形の跡が無数についているのを見つけた。……ボクはもう一つの手で握っていた木槌で板壁をそっとたたいてみた。
破れた籐の椅子が三脚と、……窓にはシルクのレースの切れ端がぶら下がっています。
ボクが今まで見たこともないようなとても上品でつつましやかなシルクのレースが一枚、窓枠にピンで止められて、まるでこれ以上軽やかなものはこの地上に存在しないかのように、風に楽々とひるがえっていた。
あっ、ナポレオンですね。イイですね。スゴイですね。ヤン君これはイイですよ」
「シメ君、まるで救世主大寺院みたいな雲ですよ」
……「シメ君、教会の屋根がなくなりましたよ」
……「シメ君、教会の横に大きな穴があきましたよ」
「ゴーゴル・モーゴルですよ。卵の黄身をうんと泡立てて、ラム酒を入れたんです。あっ、それから砂糖もたくさんね」
「汽車を見に行きませんか?」とシメ君がすごい提案をした。……
こうしてボクらは、スケッチブックと、板と、ピローグの袋を持って再び歩き始めた。……
そして、ボクらの右手はるかかなたから、ところどころ森林に没しながら、大きな弧を描いて、ニ本の鉄路が盛り土の上に敷かれていた。(レヴィタン《走り来る列車》)
ボクらからつづくこの斜面にも、白やブルーやピンクの花が咲き乱れていて、優しい春のそよ風にかすかにゆれていた。(レヴィタン《花咲く草地》)
シメ君はいつものようにボクが作ったピローグの入ったかごを片方の翼で持って、ボクはといえばたっぷりお茶の入ったやかんの柄を握って、もう片方の手で画板の代用品の板とスケッチブックを抱えて歩いていった。鉛筆はシメ君愛用の肩鞄にしっかり入っていた。
シメ君は自分でヤカンの注ぎ口にひっかけてあった琺瑯のカップを抜きとった。
そして、この曇った草原の一角に咲く菫青色の矢車草の一群。
しかしそれは残された者への花束にすぎない。(レヴィタン《矢車草》)
テーブルの端には、初めて目にする、アールデコ風のちょっとかわった球形にデザインされた小さいサモワールが、圧倒的な金色に輝いていた。よく見るとそれは鳥の翼の把っ手と、鳥の頭と嘴の注ぎ口を持っていた。
テーブルの上にはガラスのコップとソーサーとスプーンとナポレオンと、そしてサモワールしかなかったが、それこそ他に何もない分、より素敵で美しさがきわだていた。
ボクらの意識が作り上げた虚構の球形はそこいら中に散らばったり、地上すれすれや、空の上に浮かんでいたりするのです。
……
ええ、どんな立派な球形でも、無意味なモノは消せるのです。所詮ボクらが創り出したモノなんですから」
一歩一歩フェルトのブーツを踏み締めていた。……アストラハンの毛皮の帽子はすっかり雪化粧を施され、……
「ええと……」と思い出せないおじいさんは、仕方なくレコードを止めて、黒いラッカー盤の赤いラベルを見ていた。
「ワルツ、ワルツ……」その先が読めないおじいさんは、丸くて青いレンズの眼鏡をかけて、
「ワルツ・フランソワ、カラシンスキ作だね」と教えてくれた。
かわいいバスケットの蓋を開けて、中から彼はありきたりのガラスのコップと、陶製のソーサーをとり出して、そのソーサーの上にガラスのコップをきちんとのせた。さらに白いナプキン、ーところどころしみがついてはいたーを首にゆわえて、胸にかけた。
大きなかごの中にさっきの鍋やヤカンを入れてから、麻紐で、白樺の枝と皮を編んで作られた背負子にくくりつけた。そしてこれもずいぶん大きな麻の袋と、手提げのかごを両の翼で持って、ゆっくりゆっくり足を交互に動かしながら去っていった。
ミヤマガラスは白樺の皮で編んで作った背負いかごをおろすと、次から次へときれいな箱に詰められたロクムを取り出していった。
……
カルス、エルズルム、アレッポ、ベイルート、ダマスカス、ハイファ、ジェリコ……
ボクはロクムの箱をシメ君がたどったであろう、道順に並べようとした。
それを見ていたミヤマガラスは、
「これがイェルサレムだがね」と言って、黄金のドームを持つモスクが描かれた、赤茶けた砂色の町の箱を一つ置いた。
「……このクマみたいに疲れて古びたモノは、仕方なくときどき青眼鏡をかけるのさ。世界があまりにも瑞々しく、美しく、まぶしすぎるとき、そして、あまりにはかない調べを限りなく奏でるときには」
ボクは机の上にたたまれてあった青い丸眼鏡をかけて、もう一度窓の外を見た。
そうだ、卵を持っていくといいよ。ミルクも持っていくかい。
帰り道、ボクの袋には、ハシバミの実の代わりに、いつも元気すぎるニワトリの卵と痩せた牛のミルクが入っていた。
……気球はふわりと、ゆっくり、気だるそうに上がり始めた。
……気球が上る、上る、ふんわりと。
黒っぽい服を着た男が真夏なのに黒い帽子を被り、蓄音機を抱えて、そのラッパをこちらに向けて立っていた。
そう、確かに三月。同じ日の午後、一羽の灰色の首をしたコクマルガラスが、封筒がどっさりはいってとても重そうな黒い鞄から一通の手紙を取り出して、無愛想にボクに渡した。差出人の名前はなく、かわりに封筒の裏の右下隅に、鳥の横顔がペンで描かれていた。
中には一枚の薄い紙に、ーサンガツ、モドルーとまるで電報のような走り書きが一行あるだけだった・鳥の横顔は目の周りの縁取りで、シメ君とすぐわかった。ボクは消印を何度も何度も見直した。ーティフリス、十二月ー。そして、グルジア国教会の銀色に反射した円錐形の屋根を叩くシメ君を、すぐさま想像した。