父はその後、グルジアのティフリス(現トビリシ)に移った。
ティフリスは美しい都市で、ボクもいくつかの思い出を持っている。
街を横切って流れるクラ川の両岸に並ぶ家々、
ダビデの丘からの奇妙な静寂に包まれた夜景や、
蛇行するクラ川を見下ろすメチェヒ教会の美しさ。
そして、プーシキンやレールモントフが讃えたコーカサスの清冽な
大気と山々は今でも忘れることができない。
父の自慢は、ルスタヴェリ通りにあるレストラン"ダリアル渓谷"の
看板のモデルとなったことである。
ボクは大人になってからこのレストランを探しあて、看板をスケッチ
した。グルジア文字で書かれていたかつての店名はペンキで消され、
その上に新しい店名が"オデッサ・イスタンブール"とロシア文字で表記
されていた。
店名が変わったように、料理も変化した。昔はシャシリクなどの
グルジア料理であったが、今はロシア料理とトルコ料理のようだ。
看板の父は、コーカサス一帯の人々が身にまとう長いカフタンのよう
な服に弾丸のベルトを巻きつけ、アストラハンの帽子を被っている。
コーカサスの山々の上に雲が浮かび空が拡がる。
あのニコ・ピロスマニの描いた看板ではないが、ボクは好きだ。