ボクの棺の中で共に燃える本


ヤンのシリーズで何か一冊を、と言われたら、躊躇なくボクは「ヤンとシメ」を選ぶ。それは他人(ひと)に薦めるためではない。一生一度の作品であって、もう二度と書けない類だからである。

とくに第二幕以降はボク自身、どこから読み出しても目がうるんで来て、先に進めなくなるのだ。一体どこの誰がこれを書いたんだ?と思いながら。

ボクがこの作品を書いていた頃、実際のヤンは生きていた。
彼のお気に入りの飾り箪笥の天板にライオンのように右手を伸ばして目をつむっていた。そこからは部屋全体が彼の眼下にあり、どこでも観察することができた。
ボクは彼を見上げながら一人用ソファに坐り、「ヤン」と語りかけながら、この作品に一篇ずつ加えていった。語りかけは演技でもある。ボクは身振りも交えながら    黙読し、文章は短いドラマトゥルギーとともに完結していった。ヤンは時たまごろっと横になる。天板の上で落ちないように片手を端において。その手の曲げ方が可愛い。一瞬目が合う。「ヤン、そしてネ…」とボクは物語を続ける。
絶えず別れを意識しながら、ボクはひたすら書いた。ああ、いつか別れの刻が来るだろう。突然豪雨の後に姿を消した以前のネコ、チビのように。
だからこの一瞬を大切に大切にしなければいけない。生は一瞬のうちに輝き、消え去る。
だが、ヤンは最期の心臓発作の刻まで消え去ることなく、ボクらの手の内にぬくもりを残して去って行った。あの柔らかく貴族的な長い毛の感触と共に。

この本は存在の孤独、哀しさ、宿命、そして希望の本である。
そして以後のテーマとなる 'くり返すようでいて、決してくり返すことのない’ 世界という宇宙観がクロライチョウによって、初めて姿を現す。
ニーチェの永劫回帰、 '寸分たがわず全く同じように世界がくり返すとしたらお前はその苦しみに耐えられるか’ をギリギリ否定するものだ。’くり返すようでいて’ ’決してくり返さない’ のだから。
つまり四季の移ろい、生きるもの全て、全く同じようなサイクルをくり返すが、しかし何かひとつでも異が生じること。
このひとつの異が大切なのだ。異のために生きろ! 拒否のために立ち上がれ! たった一匹、一人の反乱でも世界は変わるのだ。

しかし生きることの悲しみは深い。生きること=見つめること。であるが、クロライチョウはそれに耐えられず、見る位置が次第に低くなってくる。クマのおじいさんの老眼鏡と称する青眼鏡は実は老眼鏡ではなかった。クマのおじいさんも現実を現実のまま見つめることが苦しかったのだろうか。そしてヤンがその眼鏡をカタミとしてかける時、新しい迷いネコが出現する。

まだまだこの本には隠れた横道が沢山あるだろう。それが最後にひとつにまとまる様は自分で眺めていても実に美しい。

どうかボクが棺に入るとき、この本一冊を入れてくれ給え。
共に燃えよう。クマのおじいさんの見えないインクで書かれた原稿のように燃える火にくべてくれ。この本が全て地上から消え去ること、ボクにとって決してつらく寂しいことではないのだから。

            病室にて                   
                         09 . 2 . 9
                         町田純 

    このテキストは「ヤンとシメの物語」の新版の後書きとして書かれたものと思われます。
      2011.2.12、町田純は一冊の「ヤンとシメの物語」と共に荼毘に付すされました。
                                   (by Mariko Machida)