ALEXIS GRITCHENKO
アレクシス・グリチェンコ
ーイスタンブールでの2年ー
1883年、ウクライナに生まれたアレクシス・グリチェンコは、ヤルタで仲間と展覧会を開いた後、モスクワに移り、
革命後はマレーヴィッチやカンディンスキーのようにモスクワの国立自由芸術工房で教えていた。
しかし、生徒たちは次々と国内戦の戦場に送られ、芸術はプロパガンダに仕えるようになっていく。
そんな状況を嫌って、1919年イスタンブールに逃れた。
イスタンブールはパリやロンドンやアメリカを目指すロシア人難民の中継地点だった。
イスタンブールでの困窮生活にも関わらずグリチェンコの絵への情熱は冷めず、
高価で手の出ない油絵の具の代わりに水彩絵具や鉛筆で、イスタンブールの風景や
人々を描いた。
空腹を抱え、冬はかじかむ指を瓶に入れた湯で温めながら描いたそれらの絵は、
どれも生き生きとして魅力的だ。
現地の芸術家たちとも交わったが、古臭いリアリズム絵画が主流のイスタンブールでは
キュビズム的にデフォルメされたグリチェンコの絵は理解されなかった。
絵を見たイスタンブール人とグリチェンコとのやりとりには、思わず吹き出してしまう。
「あなたは正確に描くことも出来るのですか?」という問いにグリチェンコは
「とんでもない!正確に描くことを忘れようと、僕は10年もの間苦心してきたのですよ」
1921年、イスタンブールでロシア難民の救済活動をしていたアメリカの考古学者トーマス・ウィットモアの援助で、
グリチェンコはフランスに向かい、1977年その地で生涯を終えた。
ウィットモアは後にアヤソフィアの内壁の漆喰を剥がし、
塗り込められたモザイクを現前させることに力を尽くした人だ。
グリチェンコはアヤソフィアの絵を何点も残している。
ビザンチンのキリスト教聖堂として建立されたアヤソフィアに
ロシア正教の源流を見て、その壮麗さに感嘆している。
ビザンチン時代にキリスト教聖堂として建てられたアヤソフィア(ハギアソフィア)は、
オスマン帝国ではモザイク画を漆喰で隠し、イスラムのモスクになった。
トルコ共和国になった後、漆喰が剥がされるとキリストや聖者を描いた美しいモザイク画
が現れ、博物館になった。
そして、2020年イスラム主義のエルドアン大統領は再びモスクにした。
さすがに観光資源であるモザイク画は漆喰で塗り込めるわけにはいかなかったようで、
礼拝時にはカーテンで隠すのだそうだ。
その光景を想像すると、珍妙さに笑ってしまいそうだ。
しかし、イスタンブールの魅力である多様性が失われていくのは、悲しい。
「イスタンブールの占いウサギ」で、ヤンもグリチェンコと同じ1919年に黒海を渡ってイスタンブールに着いている。
絵の具を抱えてイスタンブールの街を歩きまわっていたグリチェンコは、ヤンや占いウサギ、おみくじ売りのミヤマガラス、
魚の嫌いなカモメ、数えることが好きなロバたちにどこかの街角で出会っていたかもしれない。
1921年、ヤンが出会った白軍中尉はロシアに戻っていくが、
同じ年にフランスに渡ったグリチェンコは祖国に戻ることはなかった。イスタンブールを再訪することもなかった。
イスタンブールのスカイライン 1921.3月
ガラタの船着き場
港で(荷運び人) 1919.12月
イスタンブールの通りの風景 1920
イスタンブールの眺望 1921.3月
リュステム・パシャ・モスクで祈る人 1920.6月
ミヤマガラスはここでおみくじを売っていた。
カユーク(ボート)
ガラタ橋でロバが数えていた舟はこんな様子だったのだろう。
アヤソフィア
イスタンブールのコーヒーハウス 1921
ファティ・モスクの外 1920.12月
ヤンと占いウサギが記念写真を撮ったイェニ・ジャーミの入口も
こんな風だった。