チェーホフ・マシーン
芝居というものは、小学校の学芸会であろうが、はたまたアカデミックな大劇団だろうが、とにかく観ていて気恥ずかしいものだ。 さて、チェーホフの戯曲は、確かにあの時代には不条理なものと思われただろう。彼は芝居の恥ずかしさ、大袈裟なドラマトゥルギーを嫌ったからだ。 で、モルドバの劇団イヨネスコ劇場の「チェーホフ・マシーン」という新作 (フランスの関係者との共同制作)は、結核で死の床にあるチェーホフが、彼の芝居の登場人物たちがその後どうなったかを、うなされるように見るといったもの。 ひとことで言うと、脚本が古い。演出も目新しさはない。 たまたまイヴァン・ブーニンのチェーホフの思い出を読んだばかりだったので、なんとなく可笑しくなってしまった。 彼の作品の人物たち、かれらがその後どうなったか、それは意味のあることじゃない。もし意味があるとしたら、革命後生き長らえた連中がいたとしたら、どうなったか、そこを描いて欲しいな。その方がもっともっと皮肉で、複雑になる。 要するに、チェーホフにとって(僕にとっても)恥ずかしくてあまり触れて欲しくないものを、見せてくれたわけだ。ブーニンやトルストイがチェーホフの芝居を理解できなかったのは、チェーホフの戯曲が、前述したように安易なドラマトゥルギーを避けたことだ。それがチェーホフ劇の核心だ。 とはいえ、役者はとても素晴らしく、彼らを俳優にして映画にでもなれば、楽しいものが出来るだろう。 Text by Jun Machida 2003.9 |