メチャクチャ痛快な「ハムレット」を見て、クウェートに対するイメージが大きく、そして少し変わった。
中東世界と”国際社会”への痛烈な風刺が、次々と繰り出す。
ヨーロッパ留学から急遽帰国したハムレットは、父の死の真相に悩んだ末に、アラブの伝統文化に回帰したかと思うや、ついにはビンラディン風ヒゲヅラのイスラム原理主義者になってしまう。絶望したオフェーリアは自爆し、ガートルードは酔って、肩も露わに悩ましいポーズ。<イスラムの国で、こんな演技(この程度だけれど)いいの!?>
白人の武器商人は、人々の間を狡猾に泳ぎ回り、武器を売りつけるだけではなく、”テロ”という便利な言葉の使用法まで伝授する。
「”狙撃された”ではダメです。”テロ”と言いなさい。”テロ”です。」<テロとの戦いと言えばどんなことでも許される!>「アル・ハムレット・サミット」は科白の芝居である。
強く美しいアラビア語で発せられる科白が、鋭い風刺に満ちていて、途轍もなくスリリングだ。<心の中で思わずニヤリ、喝采、爆笑、「その通り!」>
「ロンドンに亡命して、偽リベラリストのペットになってやる!」
「国連は殺戮を許す道具だ。」
「PLF(パレスチナ解放戦線)の幹部を数人捕まえて、拷問しているところだ。」
そう、クウェートはパレスチナ難民にとって、憧れの国だった。
「金持ち国クウェートに行けば、仕事にありつける。そうすれば、難民キャンプの家族に送金できる……」
カナファーニーの『太陽の男たち』は、クウェートに密入国しようとして、果たせなかった男たちの、やりきれない話だった。
ブッシュの父親の湾岸戦争の時には、クウェートで働いていたパレスチナ人は皆、追放された。パレスチナの解放をお題目に唱えてはいたサダム・フセイン。だが、クウェート人にとってはサダムは侵略者にすぎない。親サダムのパレスチナ人の代わりに、クウェートで働きたい外国人労働者はいくらでもいる。
最後の場面、アメリカ軍がサダム・フセインのバグダッドを空爆する映像がスクリーンに映し出された後、武器商人を伴って、フォーティンブラスが登場する。
そして、フォーティンブラスが、体の内から絞り出すように、痙攣しながら必死で発する言葉は、
「イ、イズ、イズ……、イズラ………」
この発語は轟音に掻き消される。
戦慄が走った。
制圧者は、サダム・フセインのイメージではなかった。
アメリカの武器と手を携えた、イスラエルだった!
これこそが彼らが何としても言いたかったこと。
そして、何としても打(撃ち)消したいこと。
体が震えるほどの衝撃だった。ウードの演奏に送られてホールを出た後も、しばらく体の内からの震えが止まらなかった。
こんなにも力強くメッセージを伝える力を、いまだに演劇は持っていたのだ。
そう、音楽もすばらしかった。舞台隅の2人が、ウード、ヴァイオリン、キーボード、タブラ、ムビラetc を生演奏する。上品なアラブ風味付けの音楽と、芝居の内容の過激さが、不思議とうまく合っている。
こんな芝居を見れば、クウェートのイメージは大きく変わる。
石油とオイルマネーとアメリカの基地しかない国、ではなかった。活発な批判精神と豊かな文化に富んだ国らしい。
しかし、この芝居は、クウェート始め中東諸国では上演されていない。俳優、スタッフの中で、クウェート国籍は作家・演出家のスレイマン・アルバッサームひとりだけ。とすると、クウェート観の変化も縮小すべき?
それにしても観客の少なさは寂しい。土曜の夕方で100人いるかいないか。この国の文化は間違いなく貧しい。
Text by Mariko Machida Feb 2004
|