「それで、ドーする」
「エ? ウン」
二匹はゆるやかな起伏の上を歩いていた。草丈は低く、見通しは申し分なかった。ちょっとした高みに上れば、全てが見渡せる。世界の崖(はて)まで、と赤ネコは思った。
「やっぱり、ソーする?」と青ネコ。
「エ? ウン」と赤ネコ。
冷たい風が頬を撫で、このゆったりとした起伏をなぞりながら流れていった。
だけど……、赤ネコは考えた。だけど、まあいいか。
澄み切った空は、夏の終りの寒気団に支配されてどこまでも青い。
「ヒンヤリする」と青ネコ。
「ウン」と赤ネコ。
このまま短い夏が終わってしまうのはちょっと惜しい、と赤ネコは思った。まだまだやり残したことはいっぱいある。だけど、……まあいいか。全くネコのお人形コンビの人生は際限が無いのだから。
青ネコがサッと白っぽい岩の上に跳びのった。
前方に草原の窪地。そう、間違いなくあそこだ!
「見えた!」と青ネコ。
「ウン」
「それで、ドーする?」
「エ? 計画通りサ」と赤ネコは小石を蹴飛ばした。
小石は二度ハネて草ムラに隠れた。
窪地あたりから湧き上がる冷たい風が草と草を揺らし、飛ばされた小石が顔を出す。
赤ネコは歩を進めてその小石を拾う。
風が手元をすり抜ける。
赤ネコは振り向く。草原の地平はたちまち空に融けた。
青ネコは岩から滑り下りたところ。
お尻をパタパタとハタいて、黄色のリボンを結び直す。
再び前を向いた赤ネコは小石を投げた。小石はいったん宙に止まったが、あっという間に落下すると窪地の方に転がった。でも窪地はまだまだ先。
そこにはちょっとした林があり、どうやらその中に何かが隠されているらしい。
二匹のネコのお人形はゆっくりと下っていった。
青ネコは何か口ずさんで、赤ネコは心なしか思いつめた表情で。
ああ、忘れていた! 青ネコは小さなリュックを背負っていた。そして青ネコは少しばかり無い肩を怒らせて歩いていた。だって肩ひもがしょっちゅう滑り落ちるから。
ゆるい勾配の草地を下っていく。どんどん、どんどん。
フト、赤ネコは立ち止まる。そして軽い吐息。「やっぱり、ソーか」と一人言。
青ネコは構わず、というか、何かを口ずさみながらどんどん先に下る。
赤ネコも仕方なく下る。
底に近づくに従って、枯れた草が現れ、乾いた灌木の枝がポキポキと折れる。殺風景だナ、と赤ネコは思った。見上げる青空。ガサガサ、ポキッ。ガサガサ、ポキポキポキ。わずらわしい蔓(つる)草。
「痛(イテ)」青ネコの頬を小枝がたたいた。
「で、ドーする?」と珍しく赤ネコの方が問いかけた。そう、どうやら赤ネコは決心したらしい。
「だから……」ちえっ、頬(ほっ)ぺたがヒリヒリする。「計画通りサ、ってさっき自分で言ったじゃナイ」
「エ、ウン」
二匹はしばらく無言で前進する。すると、こぢんまりした林が現れた。
二匹はそこで立ち止まった。
青ネコはリュックを下ろす。そして地図をとり出した。それから次に磁石。磁針はフラフラしていっこうに定まらない。赤ネコは何か不安を感じた。しかし、目の前の林は決して陰鬱なものではなかった。樹と樹はほどよい間隔をとりながら枝を伸ばしていたから。そして何よりも、落葉樹の林だったから。
赤ネコは林に入っていった。かすかなケモノ道。軽く踏まれた葉。灰色の樹肌はスベスベしている。上を見ると、ホラ、空はちゃんと姿を現す。
青ネコはまだ林の入口で地図と磁針の方位を合わせている。フン、やっぱりあっちが北だナ。するとその先は北極。あそこにはホッキョクギツネがいる。それから体がでっかい割に頭の小さなホッキョクグマ。でも手はとても太い。氷山は青い海の下にその体の90%を隠している。なんだかヒンヤリする。
「オーイ」赤ネコの声だ。
「ウーン」青ネコは手際よく地図と磁石をしまった。
二匹は細く続く一本の林の踏み跡を進む。
林の奥に隠されているモノ、それは二匹だけが知っている恐らく秘密の宝? それとも秘蹟を授かる場所?
青ネコの頭の中にはしっかり地図が描かけれている。そして自分たちの居所も。
つまり、頭の地図と二つの点が移動する。青ネコは全てを把握していると思っていた。そう、あまりに完璧だ。石英プリズムのように明晰だ。
二匹が林を抜けると、小さな円形の草地が現れた。といってもその草地の周りは樹で囲まれていたから、林はまだ続いているのかもしれない。
「帰ろうか」と赤ネコ。
「なんで?」と青ネコ。
「ウン」
草地は樹の影に沈んだちっちゃな青い池のように見えた。上を向くとポッかりと空。
青ネコが青い草地に立つ。ちょっとした舞台だ。ぐるりと取り囲む林は息をひそめて青ネコの台詞(せりふ)を待つ。
青ネコは深呼吸して、
「踏み跡が消えている」
「帰る?」と赤ネコ。
アッ、そのとき突然青ネコの姿が視界から消えた。
不穏な風がこのちっぽけな空間を走り抜ける。何か妙だ。
やっぱり計画は中止すべきだ、と赤ネコはさっきから林の最後の樹の下で草地に一歩も踏み込むこともできずに迷っていた。
「オーイ、どうしたのかナー? オーイ、オーイ」赤ネコはたまらず声を出す。
「……」
応答はない。
「オーイ」ともう一度。
「……」
赤ネコの頭上で梢が騒がしく揺れる。それほど強い風でもないのにこれは何なんだ。赤ネコの不安は赤い風船のようにふくらむ。
「オーイ」と再び呼びかける。
すると、
「だからー、踏み跡が消えたから……」と面倒くさそうな青ネコの返事。でも姿は見えない。
赤ネコは梢にひっかかった赤い風船の糸をほどくと、草地に一歩踏み込む。ピタ。二歩。ピタ。三歩。ピタ。
草地の中央に青ネコは座り込んで地図とにらめっこ。
赤ネコは糸を放す。風船はたちまち風に流され林をかすめて飛び去った。
「アッチじゃないかな……」青ネコはやっと立ち上がる。
「ウン」赤ネコは風船の消えた方角を見つめて後ろを向いたまま。
青ネコは地図を握りしめて、ザワザワと草深い一角に入ってゆく。ポキポキ、ポキッ。「痛(イテ)」ザワザワ、ポキ。ようやく振り返った赤ネコも仕方なく後ろを追う。ザワザワ、ポキ。
再び林の入口。
「ホラ」と青ネコが少し自慢そうに指、いや、手で指し示す。
「何が?」
「だから、ホラ」
「何?」
「あそこの枝、刃物で切った跡」
なるほど、確かに数歩先の低く細い枝が鋭利な道具でスパッと切れているような……。
「ウン」ということは、と赤ネコは考えた。
「ウン、そうなんだ」と青ネコ。
ポキポキ。ガサガサ。ガサガサガサ。ポキッ。ガサガサ。二匹の林を歩く音がおかまいなしにあたりに響く。一羽のウズラがびっくりして二匹を見つめている。
突然踏み跡に出会う。その踏み跡をたどり、二匹は快調に歩を進める。赤ネコは何も考えず、青ネコは一心に前方を見つめて歩いていた。
しばらく進むと、何か見えてきた。近づくと低い崖のような急斜面と白っぽい岩がいくつか。
草の上にリュック。青ネコはさっきから崖の下を調査している。
赤ネコは不安の風船をまたふくらませ始めた。
「帰ろうか?」
「……」青ネコはそれどころではない。
小さなハンマーで岩の角を欠(か)いている。ハンマー? そんなモノがリュックに入っていたとは。
「ありふれた石灰岩だ」と破片を観察し終わると、青ネコはポイと捨てた。
「……時間がナイ、帰ろうか……」と赤ネコの風船はだいぶ大きくなった。
「あのネ、そんな所で風船ふくらませないで、あっちの方調べてヨ」とちょっと怒った青ネコ。青ネコは夢中だ。崖が大好き。
ハハーン、窪地の端だな、と青ネコは理解した。
何でこんな所に崖なのか? と赤ネコは理解できなかった。実際この単純と思われた草原の窪地は、案外複雑な地形、特殊な地学的構造を持ったものかもしれない。崖の上にも樹が何本か育っていた。その更に上は、青い空。
それから小一時間ほどたっただろうか。青ネコの冷静な声。
「見つけた」
一方赤ネコは、少し離れた所で崖にブラ下がる蔓(つる)性植物と闘っていた。
ちぎってもちぎってもなんだか絡まってくる。ひっこ抜くには、根が深い。
「オーイ、見つけたよー」遠くから青ネコの声。
「ウーン、すごーくウットーしいんだー、蔓がー」
「だからー、ここだからー」
「ウーン、もうすぐ切れるからー」
それからまた小一時間ほどして、青ネコが赤ネコの所にやってきた。ピタ、ピタ、ピタ。
「見つかった?」体じゅう蔦の絡まった赤ネコが聞いた。
「ウン」
青ネコが発見した入口は灰色の岩の陰、岩と岩のスキ間。
「ホラ、ここなんだ」
「ウン」
「で、どーする?」
「ウン、計画通りサ」と意欲を取り戻した赤ネコ。
そうと決まれば出発だ。青ネコはリュックを背負う。そのリュックが岩のスキ間にこすれる。
チラホラと点在する小さな石灰岩の岩が、ここらあたりのカルスト地形を物語っていた。