オデッサの幼年時代
 
 [ヤンの手記]より

 ボクはオデッサで生まれた。
 信仰を捨てた父は、祖父から受け継いだ商人の才を発揮して、様々な品
 
……シナからの茶、アストラハンからの毛皮、コーカサスやホラズム
 からの絨毯など
……を商い、富を手に入れた。
 そのお陰で、ボクのオデッサの幼年時代は文字通りバラ色であった。
 その思い出は、庭に咲く数多くのバラの花の香りと共にある。 

 ボクは、オデッサが好だ。
 父に連れられてシャリアピンを聴きに行った劇場や、海沿いのプロム
 ナードの散策を思い出す。
 プロムナードに等間隔で並ぶ街灯は生暖かい南風を受けて、今にも
 眠り込みそうな景色で、過去から未来へと続いていた。ソロヴィヨフ
 たちが期待するこの世界を救う天使など現存するはずがない。
 ウクライナ人、ユダヤ人、ギリシア人、アルメニア人、ロシア人、
 ペルシア人、トルコ人、そしてフランス人やドイツ人
……
 ある者は商売に精を出し、ある者は密輸で儲け、革命運動に身を投じる
 者もいれば、それを取り締まる官憲と弾圧するコサック。
 この町には現実しかない。
 ペテルブルクやモスクワの動向はこの地でも無関係ではないが、彼らの
 眼はロシアにだけ向いているのではない。
 黒海を渡ったその先、ボスフォラス海峡を越えたその先、マルマラ海、
 エーゲ海をこえたその先、地中海を越えて、アフリカやアメリカにも
 向いているのだ。

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