6日目 1991年12月30日
 
 8:00am、ペラパラス・ホテルを出発。
 モスクワ経由で帰国。モスクワの空港内でも、ロシアのマロージナエ(アイスクリーム)は美味しかった。
 グルジアや中央アジアやモスクワ市内で食べたソ連のマロージナエと同じように美味だった。
1991年12月31日
 
 朝、成田着。
 帰宅すると、ヤンは傷だらけの顔で教室の椅子にいた。
 留守中の世話は同じ敷地に住む純の母親が引き受けてくれた。
 私たちの所にやって来て間もないヤンは、しょっちゅう外に出て、よく喧嘩して怪我をした。
 留守中の怪我で情けない表情のヤンを見てから、長期間の旅行をしなくなった。

 現地の物売りに交じってガラタ橋の上に立ち、「イスタンブールの占いウサギ」
 のポストカードを売るのが夢だ、と町田純は言っていた。

 またイスタンブールに行ってみたいと思うこともある。
 ガラタ橋でポストカードを売ってみようかとも。
 でも、思い出がありすぎて1人では寂しすぎる。
 街も大きく変わっただろう。きれいになりすぎて、がっかりするかもしれない。
3回目のイスタンブール目次 
top ネコのヤンと愉快な仲間たち 
それから
 
 カフェ・オデッサーイスタンブールを開いていた1993年から1996年までは、旅行どころではない忙しさだったが、
 2002年ヤンがいなくなった後も、何故かもう遥かな旅に出かけることはなかった。
 だから、この3回目のイスタンブールの旅が、最後の"町田純との遥かな旅"になる。
顔の怪我もすっかり治ったヤン 1992年1月