中央アジアへの旅の記憶
2回目の海外旅行は、中央アジア。
イスラムの文化に初めて触れる旅だ。
1985年7月末から8月初めの16日間。
真夏の中央アジアは暑かった、そして晴れていた。
今回は、中央アジアの各都市間の移動も含めてすべて飛行機だ。
飛行機嫌いの町田純も、前回のコーカサスの旅で少しは慣れたのかな? それとも観念したのだろうか?
1 ハバロフスク
今回も旅の初めと終わりはハバロフスク。しかも丸々1日以上の滞在なので、ゆっくり街を散策できた。
ハバロフスクの通り 車の中に花
街外れのアパートの前
アムール川の船着き場は2階建ての木造の建物で、川に沿って細長いテラスが伸びている。テラスの川側には白いペンキ塗りの柱が並び、柱と柱の間は柵になっている。柵の一部を開いて着岸した船に乗り降りする。テラスの建物側には枠が白く塗られた窓が並んでいる。中にはカーテンが掛かっている。カーテンの代わりに新聞紙が貼られているところもあるが、優雅な造りだ。映画「持参金のない女」でもこんな船着き場が出てきたような気がする。
アムール川の船着き場
船着き場の窓
公園にはロマたちがいた。
現地のツアーガイドはソ連にはジプシーはいませんと否定したけれど、
大きな袋一杯に詰まった荷物を地面にいくつも積んで、その横に座って
いる女たちは一目でロマと分かるロングスカートのカラフルな衣装だ。
公園のロマ
パンの搬入とウィンドウディスプレイ
メインストリートのカール・マルクス通りでは、ケースに冷凍魚やチーズの並ぶ食料品店を冷やかしたり、パン屋のウィンドウディスプレイに見とれたり、文房具店でざらざらの紙のノートを買ったり、道端に座っている体重量り屋のおばさんの体重計に乗ってみたり……。
食料品店の中 チーズのハリネズミ
一人の青年に日本語で声を掛けられた。名はディーマ。知り合いの船員さんに頼んで手に入れた日本のカセットテープで、日本語を独習していると言う。流暢な日本語だ。そのカセットテープのうちの1つ、中森明菜の歌う歌詞の一部が聞き取れないので、教えて欲しいとたのまれた。中森明菜の歌?知らないけれど、日本語だから分かるだろうと承知した。

通りを少し入った所にあるアパートに向かう。ドアを開けると玄関の間というのだろうか、フックにコートがたくさん掛かっていて、その下には靴が何足も置いてある。ソ連映画で見る玄関の情景と同じだ。あとはキッチンと2部屋ほど。バーブシカ(おばあさん)が笑顔で出てきた。両親は仕事中で不在。居間の端のベッドに寝ていた小さな妹ターニャが目を覚ました。
ディーマがお茶を入れてくれる。サモワールもポットさえも使わないで入れるお茶は、でもサモワールでの入れ方と同じだった。ポット代わりの深皿で濃く出した紅茶を、それぞれのコップに少しずつ注ぎ、それを湯で薄める。当時ソ連中に茶を供給していたグルジア紅茶は美味しくないと言う。そうかな? 入れてくれたのはインドの紅茶。ターニャは砂糖を3杯いれた。
さて、中森明菜の曲だが、純も私も何度聞いても聞き取れない。困った。
街角で体重測定
眠っているターニャ
キッチンのディーマ
町田純のメモ
翌日はタシケント経由でサマルカンドへ。
2 サマルカンド へ続く